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2023/3/23 その他 IML Track14 I Shot The Sheriff

 

 

風は見えなくても風車は回る

音楽は見えなくても心に響く

J.S.バッハ

 

 

 

 

 

Track14 I Shot The Sheriff

 

「I Shot The Sheriff」はボブ・マーリーによって書かれ、1973年にボブ・マーリー&ウェイラーズによってリリースされた曲です。レゲエの神様と呼ばれるボブ・マーリーですが…結構ファンキーな生涯で、いつもなら曲や紹介動画の話を進めるんですけども、さすがにボブ・マーリー本人に触れないわけにはいかないぞ、ということで簡単にボブの人生を紹介します。

1945年、ボブ・マーリーは61歳のイギリス海軍大尉の父と18歳のジャマイカ美人の母の間に生まれました。(1行目から破壊力強めの文章ですね。思わず二度見してしまいます。)産まれた時から父とは別居しており、血のつながり以外での一般的な親子関係は、ほぼなかったそうです。首都の学校に通わせるという名目で父により引き取られ、首都に住むマーリー家の友人である老婆のもとに預けられます。しかし、父はボブを預けると二度と姿を現しませんでした。ボブが10歳のときに父が死去します。父からの経済的援助が無くなり、母は職を求めて首都郊外のスラムに移り住みました。ボブは自分と母を捨てた父に怒りを抱いていましたが、移り住んだ町の学校で幼馴染であり音楽活動を共に行っていくバニー・ウェイラーとの出会いがありました。

当時、ジャマイカは90%以上が黒人奴隷でした。白人は貧しい黒人を支配する側で、黒人である母は支配される側の人間です。そんな時代背景や生い立ちからボブは混血ということだけで苦しむ幼少期を過ごします。周囲の黒人とは異なる容姿から「ドイツ人」というあだ名がつき、それを嫌って靴墨で顔を塗ることもあったそうです。白人からも黒人からも差別され、暮らしに困窮していたボブは最初は生活費を稼ぐ理由で歌手を目指し、タレントショーなどにも出演します。

21歳の時、後に自身のバンドでコーラスを務めるリタとおめでた婚をしたボブ。実はミス・ジャマイカや、当時独裁者で有名だったガボン共和国大統領の娘など、妻の他に6人の愛人、妻の連れ子を含む合計11人の子ども(サッカーできるね)がいる、というのが有力説です。認知していない子どもや相続権のない愛人を含めるとそれ以上になるみたいです。マーリー一族は「レゲエ界のロイヤルファミリー」という知名度を持っています。

ボブが世界的に有名になったきっかけは、ギタリストとしてすでに活動していたエリック・クラプトンです。クラプトンがこの「I Shot The Sheriff」をカバーしたところ、全米チャート1位をとる大ヒットを達成します。これを機に、クラプトンがソロヴォーカリストとしてもアーティストとしても認められるとともに、原曲もフィーチャーされ、ボブ・マーリーというアーティストの知名度とレゲエという音楽の知名度が一気に上がり、世界的にブレイクします。

ボブが活躍していた当時、ジャマイカは内戦状態にありました。当時のジャマイカには2大政党があり、その政党同士での内戦がひどかったようで、ボブも内戦の餌食になりました。世界で活躍するボブがどちらかの政党を支持すれば、一気に世論はその政党に傾いてしまいます。それを嫌った両党が、ボブの暗殺を目論んだため、国外亡命を余儀なくされました。その亡命生活は2年にも及びましたが、彼はジャマイカに帰国し、フェスティバルに出演します。そのフェスにたまたま両党の党首が見に来ていました。両党の党首の存在に気づいたボブは、演奏が終了した後、党首達をステージに上げ、そこで握手を促すのです。握手を交わした事によって、ジャマイカの内戦は収束へと向かいます。ボブはレゲエの知名度を上げただけではなく、音楽で内戦を終わらせたことが、レゲエの神様と呼ばれる所以でしょう。

その後も日本をはじめ世界中でツアーを行っていたボブでしたが、ツアー中に足の親指を痛め、医師に悪性のメラノーマ(悪性皮膚がん)と診断されました。親指を切断することを勧められましたが、宗教的な理由でボブはこれを拒否しました。この影響でアメリカツアー中に容態が急変し、病院に搬送されます。しかしそのまま容態は回復せず1981年に36歳という若さでこの世を去りました。最終的な死因は、脳腫瘍と腫瘍の肺への転移によるものとされています。

 

簡単に紹介してもこの長さになるほどの人生を送ったボブ。「I Shot The Sheriff」もボブの経験が基になっているという説もあります。歌詞の内容は、
 黒人男性が特に意味もなく保安官から憎まれている。
 ある日黒人男性が撃たれそうになったので
 とっさに防衛のため保安官を撃ったら
 なぜか助手が死んでしまい
 死刑にすると息巻く追っ手から逃げている
 という状況で、
「俺は保安官は撃ったが、助手は撃っていない」
と正当防衛を主張する内容です。
もしかしたら、黒人男性に罪を着せるために、保安官が助手を殺したのかもしれないとも推測できますし、そもそも助手はいたのか?という疑問もあります。この曲の『私が種を植えるたびに保安官は「成長する前にそれを殺す」と言った』という歌詞が実際のことだ、と証言したのが元カノのエスター・アンダーソンです。経口避妊薬の使用にとても反対だったボブに対する医者の言葉であり、医者を保安官に置き換えたと思われる説があります。当時のジャマイカ事情のことを考えると、黒人に濡れ衣を着せることも、医者が避妊薬を勧めるのもおかしいことではありませんね。

 

レゲエは基本的に単純なベースと裏拍でリズムを刻むギターで演奏される音楽です。そこに民謡楽器(ボンゴ、ジャンベなど)でアクセントを加えられたりしています。ゆったりしたリズムでノリが良く、心地の良い楽曲が多いですが、差別や社会問題を訴える1つの手段としても利用されていたこともあり、歌詞は攻撃的だったり、メッセージ性が高いものが多いです。「I Shot The Sheriff」も、どこかピリッとしていて、でもそれがかっこよくて癖になってしまう、そんな曲です。今回は全てのきっかけとなったエリック・クラプトンのバージョンを紹介します。

 

 

 

 

エリック・クラプトンの生誕70年を記念して2015年5月21日に伝統のロイヤル・アルバート・ホールで行われた記念コンサートスローハンド・アット・70 の模様を収録したDVDからの動画でした。ドラムの神様スティ-ブガッドさんが、力強く正確なリズムをきざんでいましたね、特に5:15からのエリッククラプトンさんのギタ-ソロは最高にカッコいいです。

 

 


エリック・クラプトン

1945年3月30日 イギリス リプリ-で誕生
イングランドのミュージシャン、シンガーソングライター。「スローハンド」と呼ばれるギターの名手として知られ、ソングライティングも優れ、世界的な支持と人気を持つ。日本ではジェフ・ベック、ジミー・ペイジと並ぶ3大ロック・ギタリストの一人とされている。『ロックの殿堂』を3度受賞。ローリング・ストーン誌の「史上最高のギタリスト100人」で2位、ギブソンの「史上最高のギタリストトップ50」で4位にランキングされた。 2004年、音楽への貢献で、バッキンガム宮殿で大英帝国勲章を授与された。 2009年、タイム誌の「エレクトリックギタープレーヤーベスト10」で5位に選ばれた。グラミー賞を18回受賞し、ブリット・アワード功労賞も受賞している。
 

 

 

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